先日、二人で食器を片付けていたら、ケーブルテレビの番組が、映画紹介になった。
片付けながらだったけど、どうやら寝過ごして終点にいってしまった電車からおりたら
無差別殺人事件がおきている、とかいうもの。
それで、駅から出ようとするんだけど、出られない!というこわ〜いもの。
 
ケイくんが「なんか怖いのやってる」といってきたので
手を止めて見たら・・・
キャー!とか、震える泣き声で「助けて、助けて・・・」とか
血だらけで犯人が追っかけてきてー!とか・・・。
暗闇から血みどろの手がバッ!ってでてきてキャー!!
 
 
「やだなぁ。あーこわいこわい。ケイくん見たい?」
「自分から見ようとは思わないなー。僕は、こういうのが好きな人の
考えは理解できないからなぁ。好きな人は好きでいいと思うけどね」
「私も同じだよ。生きてるだけで精一杯怖いからね」
「ホント。生きてるだけで怖いことだらけだ」
 
  
恐怖映画も、絶叫マシンも娯楽のひとつだから、好きな人は好きな人で
全然OKだと思うし、
こちらはキライだということは押し付けないし、実際遊んだりしている友達は
それを押し付けたりもしてこない。
言ってしまえば当たり前のことだけど。
 
 
私もケイくんも、生きているだけで毎日スリリングで、寝る前に
「今日も一日無事でかみさまありがとう」と思うほうだ。
 
 
私たちが二人で勝手に考えていることで、
もちろん、勝手な独り言にすぎないけれど・・・ 
世界中で、自然災害やテロ(戦争)、大きな事故がある。
地球はいつだって、
「命の篩い」をしているんだと思っている。
 
地震があったり、大きな事故があったり、
何故生き残る人と、死ぬ人がいるのか?
 
私や、私の大切な人たちが生きているのは、
その篩いの上に残る”大きさ”がまだあったからじゃないのか?
 
誰かのために、何かする為に、
篩いの目から落ちないような大きさをずっと保ちつづけるには
どうしたらいいのか?
 
あと1秒早かったら、篩いから落ちたんじゃないか?
あと2秒遅かったら、篩いから落ちたんじゃないか?
今日は、自分の”大きさ”が、削られてかなり小さくなってないか?
かろうじて、篩いに引っかかっていただけじゃないか?
毎日毎日、そういうことが身の上を滑り、一日が過ぎていく。
 
空から隕石だって降ってくるだろう。
地から溶岩だって噴出するだろう。
そんな中を、歩いて食材を買い作り食べ、仕事にいきあれこれ動き、
テレビを見たりお友達とあったり、そして寝ているんだ。
 
 
だから、わざわざ怖いものは買わない。
大いなる意思の元、篩いの上に残らせてもらっているんだから。 
次に篩いがゆすられたとき、しっかり大切な人たちと一緒に上に残っていたい。
 

 
 
 
とても大袈裟で、とても偉そうなこと言っているが
ただの怖がりということはバレバレだ。(;´▽`A``

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